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「真剣であるがゆえのユーモア」(倉本 聰)

今日の朝日新聞(2021・4・4)に、一昨日亡くなった田中邦衛さんを悼んで、脚本家の倉本聰氏が寄稿していた。感動の弔文であった。


「男は真面目にやればやるほど、どこかで必ず矛盾がでてくるものです」…この言葉に彼はえらく共感し、そのモチーフに真剣に取り組んでくれた。かれは必死で「真剣」を演じ、そこから生じる矛盾、辻褄の合わなさに仰天し驚き戸惑いそして呆然と立ちすくんだ。その戸惑い方の絶妙さが人間喜劇の爆笑を呼んだ。

邦さんの芝居には、それが真剣であるだけにどこか悲哀があり詩があり、そして云いようのないユーモアがあった。

チャールズ・チャップリンの至言にこういうのがある。

「人生ー人の行動は、アップ出みると悲劇だが、ロングで見ると喜劇である」


これはコメディの神髄である。最近この言葉が忘れられている。アップから人を笑わそうとするからロングで見た時、悲惨なものになる、お笑いはおふざけに堕ちてしまている。


「北の国から」が始まるとき、主人公の候補は数人いた。(確か、高倉健もそのひとりだったと聞いたことがある・順平)中から、もっとも情けないのは誰だろうと考え、満場一致で邦さんに決まった。しかし、僕にはやや不安があった。当時、邦さんの演技には、笑わそうという邪心が習性のようにあったからである。しかし、邦さんは事を理解しぐんぐん自分を変えていった。


彼ほど真面目で純粋で無垢で、家族を、いや周囲をも愛した男を知らない。「珍妙な天使」だった。絶滅珍種の漢(おとこ)だった。今、不思議に僕の中に悲しみは少ない。今も富良野に厳然と生きて暮らしているからである。(倉本聰)


この文章を今朝読んだ、感動を得た。演出にこういわせる役者ってそういない。憧れる。

「邦さんの芝居には、真剣であるだけにどこか悲哀があり詩がある」というこの文章、僕もそうありたいと思ったのだった。

※「詩とは、間接的な叙情表現である」…直接表現しなくて、間接的に気持ちを、心を別の表現でする、その方が表現としては深く大きな感動をよぶ、それが詩なのである。


「キッスだけでいいよ」まさに、この世界。


昨日、電車で帰っているとき、次郎役の大月航くんが「この芝居、やればやるほど、深みがある、セリは難しくないのだが、表現が難しいんですね、すごくおもしろいです」と言った。


先日は那須さんが「最初、これやるの?と思ったけど、今はちがう、おもしろい!」と。


私も、亡き小林君がチラシ制作にキャッチフレーズ「愛が溢れている」をどうしても入れたいといった思いを、実現したくて、今は深く真剣にやろうと、あらためて「褌(ふんどし)」締め直したところです。


なかなか、そういう気にさせてくれる芝居ってないものだあ。(順平 2021・4・4)

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