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中川順平

やっと終わった第1章

昨日、この「キッスだけでいいよ」の二幕三場が終わった、というより粗く進んだ。

手探りで、ここからがいよいよ本当の稽古に入る。

いうならば、スケッチして色付けを今から始め、また削り、そして二重三重の色を重ね、また削り、微妙な表現、言うならば人間の微かな動きを表現する方向にもっていく、まだその領域に行ったことがないが、そこが芸術なんだろうと思う。


芝居、この不思議な世界になんで今でも取りつかれているのだろう。


自分と違う世界で遊べるから…

人と人の関係は心理学でできている…、芝居をしていると、セリフセリフに色がある、それを体験できるから…

そこで得たものを実社会でも実演できるから…

精神の高揚性を感じられるから…


まあ、実社会から逃避して解放できる、遊弋できる…そんなところか。


肉体をプールに浮かべるだけで、重力が軽減出来て異次元にいるのを感じると同様に、

精神を浮遊させると、自分から離れていく、要は別次元の人になれる、そこに麻薬的魅力がある…そんなところだろうか、これはうまいへた関係ない、ただそこへいくのに時間はかかる、時折、稽古の中に、その瞬間的感覚を覚えることがある、その時間が多くなるといよいよ本番に向う、今はまだかなりこちらにいる、今回はそこにまず少し至ったというところである。


今回、後ろ向きで立つ、しかし顔は半分横、もしくは、45度斜めの工夫を取り入れている、意識的に。残念ながら客は正対した演者のほとんどが前か15度ぐらいの斜めしか見ていない、見えない、芝居とはそういうものと創られてきている、そこに新しい角度による表現に挑戦してみたいと思っていた。だから「立ち位置」と「立つ角度」をテーマにしている。

要は背中や横顔で演技が可能かというテーマである。


表現力が膨らむことは確実だと思う、日常では、そう表現が許されていたり、意味をもつ大きなポイントだったりするが、舞台では挑戦する人はすくない、演出も多くは否定する、もしくは気付かない。


なんでこう思うかというと、もう数年前から、猫背のために首の頸椎からくるしびれや痛みがどんどんひどくなる、若い時には思わなかったことで、たとえば返事一つしても、遅れたり首が回らないためにずれたりする、そして一瞬にして前をむいて発するセリフなんてどんどん嘘っぽくなるのが役の年齢に現れてくる、それが当然なんだ、そこに気付いたからである。


背中、横顔、そんな演技、顔相や体形に頼らない演技…あり得る気がしている。


要は、昔はこうだった、ああだったと知ったかぶりが先人がやった同じような表現、それも極めつけのところでやってしまう、また人がどんどん違うことを根拠をもってやろうとしているのに「そんなことでは演技にならん」「そんな間が長いとこちらのリズムがとれない」とさながら挑戦してることに、何も考えない演者が、垢や臭い匂いがついた演技論で要求してくる。


要はどんどんこういうことに挑戦する段階に来たということだ。


最近見た「明烏」という芝居、40年前、私もそうだった、汗が流れ舞台が汗で滑った。

そんな芝居を観た、役者が生き生きしていて表現をこえて挑戦している、ひとつも頑迷固陋な演技論なんか感じさせない、そんなもんクソクラエだあ!てな速射砲のような芝居、要は方程式がない芝居、なんか観に行った3人、帰り他のことばかり話ながら帰った。要は打ちひしがれて、おれにはもうできん、と敗北した帰りだったのだ。彼らは々人間とは思えないぐらい生き生きしていたんだ、本当に…もう、なるようになれって!!!すごい、怒りを覚えた。


こんなん、できるか???

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