なかなか良かった。
みんなが考え出した。
この作品について改めて思うのだが、ストーリーがそんなに捻くれて書かれていない。旧新劇と言われる作家自らが練りくりまわして、「簡単に観客ごときに筋やテーマがわかってたまるかあ」みたいに極力最後まで分からせようとしない風潮の芝居ではない。学生演劇やってるころの芝居はね、寺山や唐、佐藤信やまあいろいろ、難しくて、最高に難しかったのが今でも不条理の最高峰にあるベケットの「ゴドーを待ちながら」、私もこんなんを舞台にかけて、さもこれが芝居だあってなことを観客、学生の前でやっていて、客は寝てるし、気がついたら客の誰もついてこずでいつしか「振り返れば誰もいなかった、いや、自分の影だけがついてきた」と結果、その世界が崩壊された歴史がある。
まあそういうことからすれば、わかりやすいしセリフも難解なところがない。
が、そこが落とし穴、演出小森ちゃんがしきりとキャストに問いかけている演出法、「君は何を考えてその言葉を発するのか?どこに行こうとしているのか?何をしたくてそのセリフ言ってるのか?」
もう少し、各人にまかせばいいやないかと思うが、実はこれに応えられていないから、問われている、簡単だと思ってやってるから、演出ががんがん云う。
演出、自分のスタイルはこれだといいたい演出が多い、キャストがわかっていようがいまいが、どんどん形ばかり気にして進める演出、自分の世界に練り込めていく演出、役者も人間なのにを忘れている演出、いるいる。でも結果芝居は作家がいて演出がいキャストがいて、照明、音響、舞台装置、結果それらの総合的な表現法、だからどれが一番とはない、のに演出が、俺が、私が…が意外に多い。
昨日の稽古で経験したが、本読みのところではそんなに大声出さなくても…と思っていたところにくると、もう感情が激して、自分の役なら自然こうなると大声でどなったところがあった。
次郎…マリアン、妊娠してんのかい?
筒美…相手は誰だ、親分かい
松五郎…くだらねえこというんじゃねえ!
のくだり、自分でも「はっ?」となった。流れからかってに相手役のつまらん冗談(セリフとして書かれている)に真顔で真剣に怒っていた、不思議だったが、それが役を演じるということだと実感した。こういう実感、感情の吐露が科白であり、そういう舞台がいい芝居になるのだと思った。段取りばかりでは客も「金返せ」だ。
こういう小さな感情の機微を積み重ねてこの芝居は創りあげていくものだとおもう、この芝居はストーリーもわかりやすいのだが、人情の細やかな機微を丁寧に表現して壮大な城を築きあげていくものなんだと思う。
だから早くセリフを覚えて、段取りを捨て感情で動けて感情で表現できる、久しぶりに面白そうな作品だとつくづく思える。格好ばかり気にしてることが多い、つまらん。
決して、有名な作品だからとか、格好いいからとか、泣かせる笑わせる、なんて表面的なものばかりじゃないものを追い求めていく劇団でありたいものだ。
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