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「稚気」…

以前から思うことについて書いた。同時に、今道化座さんにお世話になっていて、9月6日に芸術センターで「通天閣」を上演する。

昨日の稽古でもいろいろ思うことがでてきた。そして帰り電車の中で最近研究生になった66歳の小谷さん(同年)と良(りょう)くんと話しながら帰った。芝居ってなんやろ、と反芻しながら、そして学生時代に関わった芝居、それがこの年になってもやっている、なんやろかと思って…以前にあるところに書いた文だが。

子どものこころ「稚気」

経験のある人は多いだろうが、子どもがひとりで遊んでいるシーンをこっそり蔭から見ていると、脈絡がない歌をうたっても人形さんと遊んでお母さん役をしているのを見ていても飽きない。その仕草や表情がなんとも人をひきつけるものをもっている。

そしてそれを理屈では説明できない。子どもは「ためにする」ことをしないから、安心して見えるのかもしれない。大人の演技を振り返ってみて怒ったり笑ったりも首から上だけの決まりごとのような表現をさながら演技と称して平気でやる。その嘘っぽさが子どものひとり遊びにも及ばない。

道化座にその稚気をもつ役者がいる、F君という。もう少し滑舌がいるが…おもしろい

芝居が上手いと言われる役者に共通するのが、この「稚気」である。

ある世界を持っていてその中を自由に浮遊する、そして人間に必ずある素の感情を稚気とともに表現する、できる役者、いいなあ、うまいなあと思う。先週、元毎日の大先輩から「君はこれ好きか、好きならあげるよ」と言われたのが「砂の器」のDVDだった。「日本映画で一番好きな映画です」。日曜日観た。渥美清、緒方拳、加藤嘉…みんな「稚気ある役者」素で芝居している。演技しようとして演技しない。素なの、これっ?って思わせられる。

人をひきつける話術

昔、西田敏行と武田鉄矢がテレビでトーク番組をもっていた。始まって数分ですでに視聴者はもう二人のワールドに引き込まれてしまう。それも台本はあってないごとくと聞いたことがある。プロの役者や作家がその話術に聞きほれたとも聞く。舞台で映える役者、舞台に客を引き込める役者は、話術は演劇を構成するひとつの大きな武器、それを縦横無人に使い分けできる術をもった役者、いいと思う。

与えられた役を創造という世界で創り、論理的に説明でき、そして感覚的に演じられる役者、わかりやすくいえば「いるいる、こんなひと」を感じさせてくれる人。さらに上手い役者と言われる人には「こんな人がいてもいい、いやっ、いるかもしれない」と客に思わせる役者、かと思う。

「通天閣」佳境に稽古が入った。仕事をもつ人たちの集まりだから、プロとはいかないが、必死で「創造」する行為に感動があるのかもしれない。

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