稽古…10年ほど前ある劇団から「芝居に出てほしい」とオファーをいただいた。そして稽古場へ。ほとんどが外部から招かれた役者ばかりで、練習前のストレッチにもそれぞれの個性が出ている。一時間前からゆっくり柔軟体操をして臨む者、ぶつぶつ歩きながら滑舌訓練の「あめんぼ赤いなあいうえお…」をやってる者、セリフを繰り返し叩き込んでいる者、じっと瞑想に耽っている者、それぞれである。
この劇団は本読みは軽く、立ち稽古を中心にして何度も何度も繰り返す。そして違和感のあるところを修正して軌道に乗せる。そこがベースとなっていろいろ所作、言い回しを付け加えていく、まさにアンサンブルの下ごしらえをこの行動で作っていく。なんとも時間のかかる稽古であるが、知らず知らずのうちに台本を手からはずしていく役者がいる。
この方法も一つの稽古、しっかり本読みを繰り返す稽古もあり、どれがいいとは確定できない気がする。そして一つの解釈のコマとして役が存在していく。
感心したある役者は、自宅でも部屋にこもりストイックに詰めていくとのこと。
家の者とも話さない。極端にその世界に入り込むらしい。
ある役者は作品の中の自分の位置を考え、敢えてシチュエーションを変えたセリフを言う、すると展開が違って来るという。中には抑揚を極力抑えどうしてもつけたいところだけ抑揚をつける、すると意味が立ってくるという、まあいろいろ稽古にはその人にあったものがあるようである。
芝居を観終わって、この役者うまいなあと思った役者とは、しっかりストーリーの中の役を演じきってる役者のこと。それもオリジナリティのある演技で。
セリフが多いとか、身姿がいいとか動きがいいとか、声がいいなんてことは、あくまでも付属物なのである。そういうことばかり気にする役者が多い。この声でいいかな?この歩き方でいいかな?なんて舞台上での客からの見え方ばかり気にする役者がいる。
今回の芝居「葬儀はキャンセルできない」では、みんなが出ずっぱりだ、セリフはだいたい等分にある、役割も等分、目立ち度も等分、ただそれぞれの役割は明確に違っている。それをオリジナリティな演技でストーリーにうまく嵌めた役を演じ切れるかが、個人の演技力の差となって現れる。結果は自ずとお客様からの評価となってあとのアンケートに現れるだろう。手を抜いた演技、表現、浅い知恵の演技では困るのである。それが芝居のもつアンサンブル(調和)なんだ。それが倍化していってこそなんだ、芝居とは。
是非ストーリーの中に埋没しきった役を演り切ってほしい。くれぐれも声なんか気にしないことだ。(J)