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俳優のノート 著 山崎 努(2)

垂水の商店街に本屋ができた。それも私のいるとことの真下に。暇なときいく。楽しい店主で、金曜日の午後、「こどもによるこどもたちへ読み聞かせ」会をやっている。?ええっ?そうなんです、小学生の子供がそれより小さい園児や低学年の子供に童話を読んであげているコーナーがあるのです。

まだ見たことないが、おそらく私達よりうまいと確信する。なぜなら「うまく読もう」とか「感動させよう」なんて思わないで、自分も物語の中に入って読むからだ。

この本屋に頼んでいた本が届いた。

「俳優のノート」だ。

もう10年ほどまえに読んだ、読み返したいと思い探したが本棚にない、再注文したのだ。その本の在り処が昨晩判明した。それも本が届いたあとに。

それはあまりにもいい本だったので、昔からの友人で兵庫高校演劇部、のちに夏目俊二さんが主宰の劇団神戸に所属し関学時代、芝居ばかりやっていて、あとに私のいる会社(後に、政財界に激震が走った大きな事件を起こした「R」という会社)に入ってきた。そして入社した日に私のいる支社に配属されてきて「ええ?もしや、順平さんじゃないですか?」と言った男に貸してあげたのを忘れていたのだ。昨晩彼と一杯飲んでいたときに「この本、僕、借りたままですよ」であっけなく判明した。

この本の一端を紹介する。

山崎努は言う

自分自身の問題として脚本を読むこと

芝居を作ることは、自分を知るための探索の旅をすること

役を生きることで、自分という始末に負えない化け物をの正体を、その一部を発見すること

つまり俳優という職業を生きることは、自分を知ること、自分を旅すること、自分がこの世に生まれ落ちた尊い意義を見出すことであるというのだ。

俳優にとって、技術の蓄積は貴重である。しかし、その技術が、役を表現する上で障害になることもある。よく通る声、巧みなセリフ廻し、華麗な動きはたしかに心地よいが、さて役の人物はというと、何も見えてこないのである。舞台の上には、得々と演技を披露している俳優がいるだけ、ということがよくある。しかし観客が見たいのは、俳優ではない。観客は、劇場という非日常の世界で、今、正にそこに生き生きと息づいている劇中の人物が観たいのだ。

なんとなくわかる、少し成長しているのかな。

近日に作った俳句に

これまでが一本の木や山桜

枝先の花より先に散り初めし

これらは、写生してそのままを詠んだ俳句、芭蕉が「俳諧は三歳の童にさせよ」と言った。

理屈っぽい句、大人の句は理屈が先にきて、鼻持ちならないとよく言われた。そのままを詠みなさいとも。そこに真実が表現されている。今でも指導を受けている俳人の中杉氏によく言われる。

思えば、ひとがもつ感情の基はそう大きく変わらない、まずそれを的確に表現する術をしっかりつくれということなのかも。(J)

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