一昨日買ったこの本「俳優のノート」のあとがきは香川照之氏が書いている。
「因果なことに現在俳優という職業に就いているので、当然私の手元にある「俳優のノート」には、何十という箇所にアンダーラインが引かれてしまっている。私は生まれて初めて、普通の図書というものに夥(おびただ)しい数の線を書き入れてしまった。ここぞと思った文章に印をつけまくってしまった。俳優という仕事の奥義を徹底的に掘り下げた山崎努の文章の数々が、私をどうしようもなく揺さぶったのだから。具体的な実態や確かな有効性がひどくあいまいな「俳優」という奇妙な職業の根源を、根っこを、どろどろの土の中から引きぬいて見事に表してくれた俳優山崎努に改めて感謝したい…と書いている。
そうなんです。実はあれからもずっと読んでいて、それもゆっくりゆっくりまるで蝸牛の牛歩のように、柿若葉の新芽の伸びるゆっくりさのように、味わってよんでいる。どんな演劇論や芝居論より、今の自分には痛く熱く身に染み込んでくるのだから。その一部を皆さんにもご紹介していく。
ちょうど迷える子羊のごとく稽古でも何をどう表現していいのかわからない状態の人がいると思うから。まあノー天気でいつも同じようにセリフだけ吐いてる御仁には関係ないだろうが。
イギリスの女優で、ジュディ・デンチというおばあさんがいる。身長155cm、007にも女ボスの役で、またシェークスピア劇の女優、映画でもよく出ている。山崎氏の俳優仲間、そのジュディの芝居を20年前にロイヤルシェークスピアカンパニー東京公演で観た山崎は、「あの芝居をみなかったら、自分は別の俳優になっていたかもしれない」とそれほど衝撃をうけたと書いている。
「ジュディはすさまじいスピードで一息で掃出した。たぶん息継ぎもしているのだろうが、それがわからない。少なくとも7、8行は間違いなくノーブレスである。そのあと、素早く腹に空気を入れるのだろうが、おの息継ぎが観客にはわからない、鳥肌が立つような感動だった。」
(※この呼吸法は、クラシック歌手の呼吸法を演劇用にアレンジしたもののようだ。学んでみたい。私は探そうと思っている。J)
「ジュディは二役(演目:冬物語)で娘のパーディタも演じていた。こちらは開放的な舞台を駆け回る奔放な役、この演技に驚いたのが、3回観たが3回とも動きが違うのだ。上手にさるところを次のときは下手に去った。その自由さに仰天した。まるで『俳優の私がそうしているのではなく、役のパーディタが勝手に動くんです』、といわんばかりの演技だった。
リアクションは演技の大切な生命線の一つだ。相手役お構いなしに一人で勝手に演技する俳優ほど始末に負えないものない。(山崎)
俳優が役をつくるときに侵す間違いは、キャラクターに統一をとろうとすることである。辻褄を合わそうとすることである。老人リア王にしても、青年ハムレットにしても、妄想男マクベスでも、嫉妬深いオセロでも、その心の動きは、かなり脈絡のないものである。人間と云うものはそういうものだ。わが身をふり帰ればよくわかる。我々はどうしようもなく統一のとれない存在なのだ。そこが肝心な人間のリアリティなのである。(山崎)
俳優は馬鹿ではいけない。俳優は演出家の道具になってはならない。俳優は森全体を見、そして木を見なければいけない。自立しなければならない。戯曲が素晴らしい、演出が斬新だ、演技が見事だと観客に感じさせたら、それは失敗なんである。舞台上に劇の世界を生き生きと存在させること、ただそれだけだ。(山崎)
今回はこのぐらいで。
要は、観客が観たいのは、俳優ではないということ。非日常の舞台という世界で、正に生き生きと息づいている劇中の人物をみたいのだ。格好や、セリフの言い回しや段取りなんてあとの問題だ、それをしたくて芝居をやってるんだから。(山崎と僕・J)