「俳優のノート」にこんなことが書かれている。
従来の新劇の演技と言われる代物は、実に空疎でリアリティがなかった。タモリがよくテレビのコントで新劇俳優の真似をしていたが、嘘っぱちのパターン演技は今やもうパロディになっている。何故あんな空疎な演技になってしまったのか、それは演技を創りあげる材料があくまで、日常にあるということを忘れてしまったからだ。演技の修練は舞台上ではできないのだ。優れた演技や演出を見て、技術を学ぼうとしてもダメなんだ。その演技演出はその人独自のものなのだ。大切なのは自分の日常にある。
(中略)
映画やテレビの撮影現場で芝居の話ばかりしている新劇俳優がよくいる。あなた「桜の園」観た?うんみたみた、あれは演出がちょっと甘かったわねえ。俺、今度ベケットやろうと思うんだ、あら楽しみ、…なんかうんざりしてしまう。こういう連中に限って、テレビの脚本も読み解くこともできずにとんちんかんな演技を平気でする。(いるいるこういう御仁が…順平)いや、演技もどきをする。
大事なのは、目の前に居る人、今起きている事に興味をもつことだ。面白いことがたくさんあるじゃないか。日常に背を向けてはいけない。演技の基本は、日常にありそれを感じる感性を具現化できるかなのだ。
またあるページには、「ある演出家が言った。喋りたくないセリフはカットしてもいいぞ、自分の言葉に言い換えていい、許す、アドリブを入れたくなったどんどん入れろ、お前の好きなように喋れ、役者が活きていることが一番大事なんだ、それ以外はくそくらえだあ」とも。
うちの演出、言ってくれないわなあ、私のこの程度の演技じゃなああ、無理やろうなあ。(順)
さらにリア王の公演期間中のある日のノート《日記)に、山崎努は
今日はテンポアップして新鮮にやれた。今までで一番の出来。自在に間もとれ、新しい動きも自然になれた。これが俳優冥利というものなのだろう。何物にも代えがたいこの自由!!。
わわああ、なんとも、言ってみたい最高の喝采な言葉、一度は言ってみたいなあ、こっそりと誰にもわからず、真っ暗闇の部屋の中で、一人涙流しながらこの言葉言ってみたいなああ
今日、また垂水の海岸で朝6時過ぎから、ひとり口に出してわいわいやっていた。咽喉枯れた。
4か所、発見があった。自分の演技のまずさと解釈のお粗末さがわかった、とにかくもっともっと演技に集中したい、今という状況から卒業したいんだ、次にいきたいのだ、僕には時間がないんだ。(順平)