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人情噺、今なぜか笑福亭松鶴…

落語ってのは、元々坊主が始めたという資料を見たことがある。今から400年ほど前、まあ江戸時代、仏教をわかりやすく庶民に広げるために、「笑」を織り交ぜながらの説法を作ったと。

その中から、人間の心理に訴えかけるいろんな手法が編み出され、最後には強烈に印象付ける「オチ」も編み出しのだと。


いろいろテーマが織りなし、恋話、架空の恨み辛いの幽霊話、庶民の日常織りなす面白さ、その数は五萬?ゴマンとあるのだろう。

今回の「キッスだけでいいよ」、これが人情噺である。最近セリフ覚えていて思ったのだが、この世情によくある庶民の織りなす喜怒哀楽にフォーカスをあて、その涙、笑い、おかしさかなしさ、なさそうである話にまとめる、だからそこに親近感を覚え、共感や納得感を生むという手法、よくある仕掛けであるが、不思議とセリフがどんどん入って来るのである。勿論、一回で覚えられるわけではないが、役の口調が自然と入り、すごく覚えやすいのである。


これは、次郎役の大月航くんも言っていた。「本当にそうです」と。


実はこういう台本、思えば、もう一人いる。大家であるが、井上ひさしの作品、何本か出たが、この井上ひさしの書くセリフが何度かやっていると自然と入ってくるのである。

それはおそらく「書き言葉でなく、語り言葉」で作られているからだと思う。要は井上作品の多くが、舞台に揚げたときを想定し、この人物ならばこういう論理をするであろう、こういう言い方をするだろう、こういう性格でこういう育ちだから…を井上先生は設定して作ってある、だからあれだけ全国あちこちで人気で上演されるのだろうと思う。

もしうまく入ってこない人は、裏口から入ってしまったかもしれない。もう一度、素直に考え直して正面から入ることをお勧めする。


そして、この高橋正圀さん、同じである。この登場人物ならばこう語るであろうことを想定の上で書いてくれている。さすがシナリオに長けた戯曲作家で、セリフに無理がない。

山田洋次監督のシナリオを同じ、寅さんのセリフも同じ、これアドリブかあ?と思えるぐらい自然で無理がなく、それで人間を創っていっている。


キッスの場合、たとえば難しい長男の勇平(外務省勤務、東大卒)のセリフ、さらに庶民代表の庄助おじさんのセリフ、親分役の松五郎のセリフ、その嫁の翠のセリフ、それぞれに「この人ならこういうだろう」と想定で書かれている。だから演じていてセリフに無理なく語れる流れが生まれるのである。


ということは、少々へたな役者でもそのまま抑揚つけて喋ると、なんとなく物語のなかの一人の役をこなすことができるのである。ただし、今、各人がもっている、へんな語調のクセや、一人よがりなワンパターンな動きなどを再度見直すことが大事かと思う、自戒をこめて。

特に、澱(おり)のようにこびり付いた頑固な性格を矯正することから始めないといけないが。


ただし、ここからだ、肝心なのは。その役を自分のものにするにはそれぞれの想像性と表現力の技がいる、ということに気付いたのだった。

で、自然と流れていったのが、この落語の世界、特に笑福亭松鶴の世界、今、寝る前にいつも松鶴の落語を聴いている。台本にも松鶴の百面相を貼ってある。稽古前にいつも観る。

なんとなく松鶴になる。


「学ぶ」とは真似る、まねぶ、から来ていると孔子の学而第一編の冒頭にもある。


さてその技とは、さあ、それが難しい…解答はないのだろうが、これだと思ったらまた書く。


今は仕事中だから、これにて擱筆(かくひつ ※筆を擱く)。


※道化座の東京公演が、新型コロナウイスルのため中止となった翌週の2020・2・17 昼 (順)


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