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演出不在がいかに…

昨日、演出小森氏より、体調悪く珍しく欠席したいと。「すわ、あれか…?」と毛色ばったが、「どうも風邪らしい、医者からドクターストップと」らしいので一安心。


1幕2場、結果3回ほど、稽古した。みんなからいろんな意見をだし、自分がしっくりこないところ、相手とのタイミング、演出はこういうが納得できないところ、むしろこういう方が場に合う、などとわいわいと云いながら。

6時半には、演出と那須さん以外、集まり、わいわいと熱く稽古。セリフは入ってる。


で、「あれっ?」と思ったことがある。やはり「観てる人がいないと、自分の動きがそのシーンに合ってるのかどうかもどかしいし、覚束ない」と気づいたことだ。

芝居はあらためてアンサンブル(調和)だと思った。誰が主役で脇役でというものでない、一人一人がネジでありクギであり、トンカチでありノコギリなんだなあと。ただ、それぞれがいないとできない、ものなんだなあと。


改めて「そのトンカチなどを観て、動きや流れをチェックし、方向づける人がいないと成り立たないもの」だと。そして「こういう家を建てるんだ」と、度々言い、度々訂正する人がいないと、なんか遊戯に終わってしまうものだと。

本来、クギやトンカチは意見をもたない、それぞれが適確に自分の役割を全うする、これが大事なんだ。どうも意見持ちすぎて不満たらたら、自分がその役割もできていないのに…という逆のシーンをたくさん稽古で観るが、まるで芝居をつぶしている行為を恥じたのだった。自戒。

いうならば「そうですねえ、ではもっとこうしてみます、これでどうでしょう?」というのが一番正しい言葉遣いなのだ、芝居の稽古では。むしろこれしかないのだ。我々は度々、逆をやってブレーキをかけていた。

本来のやるべきことをしっかりやる。

その役に声の調子はそれでいいのか?

そのぶくぶく太ってだらしない格好はええのか?

滑舌もできん、相手役への配慮もできん、相手にセリフも渡さず、自分だけ単に覚えて言えばいい、まるで小学生の学芸会みたいなその稽古、

それでいいのか?

と、自戒することなんだなあと。


なんて反省しきりの稽古だった。それだけ有意義だった。

時折、演出に休んでもらった方がいいかもな。その方が、己の低さに気付くかもしれんなあ。


そして、那須さん、真夜中に最愛のご母堂を亡くした、でも最期は孫たちも来ていっぱいお別れの言葉をいいあい、感謝を述べみんなで亡きお父さんの待つあちらの世にお見送りした。

那須さん、これからの君の生き方、お母さんは応援してるよ、きっと。何故なら心からお母さんを愛した最愛の息子だったろうからな。


これから、これから


みんな少々のことで負けたり折れたりするんじゃねえぞ、みんながいるじゃないか、なっ!

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