今度の芝居にでている中山さんは、正真正銘のお坊さん、日蓮宗の立正寺の住職である。板宿の寺を預かり、すでに35年にもなる。本家は福知山の名刹の寺、90になる高僧の父上が現役で今もいる。
我々は日曜日はいつも稽古場所としてこの立正寺をお借りしている。勿論、お布施を払って…この寺では、定期的に昔懐かしい「歌声喫茶」や「板宿寄席」をやっている。
いつも超満員、それだけ地域に溶け込んでいるのである。これは檀家さんを問わずいろいろな住職の友人たちから「寺貸してえ」に「ええよ、ええよ」と応じてきた結果、こうして人の集まりができた。まさに仁徳である。
なんとも話易い住職、決して「あかん」といわない。だけに騙されないか心配なのである。
本人はなんかケロっとしている。
それに芝居好きが高じて自らが舞台に立っている、それも率先して立っている。
劇団ぷらっとには、3年前の「流れ星」で初めてでてもらってからのつきあい。一昨年の「煙が…」と昨年の「ディアマイパパ」と3回目、そして昨年、灘で稽古帰りにいつものように居酒屋で飲んでいて「劇団入る?」に「ええよ、ええよ」で劇団員に。今還暦。
なんとも人が良く、むしろその人柄に甘えて劇団が無理言って借りているような恰好、昨日などは演出が「今度の芝居で座布団が…」「今度の芝居で棺桶にかける布が…」「今度の芝居で提灯など…」に「ええよ、なんとかねえ、探してみようかなあ…」と横で聞いてて、人のええのもいいかげんにしいやと思うぐらい人が良すぎ。
そして実は昨日の稽古、12人の出演者の中に3人、風邪や所要で欠席者がいたが、なんとも今度の芝居の葬式の世界、それがまるで本番舞台そのものの空気をもつ稽古になったのである。
全員、ノリに乗ったのはまさにこの稽古場のお蔭、おもしろかった、楽しかった、全員から「こうしたら…」「ああしたら…」「ここはこうしてああして…」などとどんどんアイデアが生まれるのである。まるであちらの世界に送られた人の霊が後押ししてくれるような、まるでその霊も一緒になって芝居というゲームの興に乗ったような無茶楽しい時間だった。全員が笑い転げるような稽古、こんな稽古も初めてだったし、かっての煙やパパの芝居稽古にはない雰囲気をもった「高度なアンサンブル(調和)的稽古」だったのである。まさに乗り移っていた。
いや実はここだけの話、昨晩真夜中に突然、寝ぼけ眼(まなこ)で、セリフを突然吐いて乗り移ったような演技をしたらしい…霊が我が家についてきたのかなあ。できれば本番まで付いてきてほしい。まさに芝居とは憑依(キツネツキ)といわれる所以だけになあ。そうすれば一段上の芝ができる気がする。(真夜中、これは本人気が付いていなかったが、どうも見ていた者が寒気がして思わず叫びそうになった、と朝言われたが)、ますますここでの稽古多めにしたいぐらいだなあ。4月ここでやったらどうやろうか?なんて思った昨日だった。
そして帰り、板宿で先輩三宅さんたちと飲んだ、これもまた楽しかった。芝居とはこういうものだなあ。相手をしって、気心がわかって、そして積み上げていく芝居、なんとも大事である。(順平)